母のこと(その1)で亡くなった私の母の痴呆症を発症するまでの過程を書きました。 かなり重たい話しになりますがお付き合い頂ければ幸いに思います。
突然起こった母の異変、私は自分の耳を疑いました。
「おかあちゃん、親父は死んだんやで、なに言ってんの!!」
そう答える私の言葉に母は電話の向こうで黙っていました。そして電話が切れました。私は心配になってあわてて姉の家に電話しました。
「姉ちゃんあかあちゃんが・・・・・・」
姉も私の言葉に驚いていました。
数日後、私は親友の運転するトラックに乗っていました。
姉と和歌山県海南市に母を迎えに行く為でした。
あの驚きの電話の後私は何度も母に電話しました。
「○○か?どうしたんや?」母の問い返す言葉は普通となんら変わりがありません。
私は心の中で「あの電話はいったいなんやっやんや?」って不思議に思いました。
でもやっぱり心配になって翌日、母に会いに行きました。
その時も訪れた私と元嫁(当時交際中)に普通に接していました。なんら変わった事はありませんでした。その時私は「山の中で静かで良いな〜 でもテレビが無いのは寂しいから今度持ってくるわ」と言う私の言葉に母は「ラジオで十分、鳥の声、虫の声、子供の頃を思いだして良いよ」って言っていました。ただ心配だったのは母の顔色が以前に逢った時と比べて一段とどす黒くなっていたことでした。
ある日、母が出家したという教会の教祖の奥さんから電話が掛かってきました。
「○○さんの状況がおかしいので来てくれ」
との事でした、私の頭の中で痴呆と言う言葉が過ぎりました。
以前から私は電話をかけて来た教祖の奥さんも教祖とも面識がありました。「優しい言葉をかけてくれる先生」そういう印象でした。母が実家に居た頃、母の通ってる教会の仲間と言われる人達とも何度も逢っていました。母が経営するお好み焼き屋によく来てくれていました。私自身「信仰は母が父の為にしてること」と思っていたので母の仲間達を暖かく迎えていましたのでなんの不信感もなく溶け込んでいました。
友人が運転するトラックに揺られながら私はあれこれ考えていました。
トラックで行く、紛れもなく母を荷物ごと引き取るためでした。
ただ一つ心配だったのは突然荷物事母を迎えに行く事に母はどう反応するかでした。母自身がかなりの決心で出家したのに突然行って連れ帰る事が出来るのだろうか?
ただ、私の決心は決まっていました。「何が何でも連れ帰る」そう思っていました。
家を出て1時間半、車は教会と称する山の中腹に到着しました。
車を降りて、母が住む平屋に向かいました。この平屋と言うのは母が出家した教会の敷地内にあって出家した信者の居住区となっていました。居住区と言っても教会が用意したものではありません。出家した信者が自分でお金を出して建てた家でした。
しかしタダ同然の山の中腹に建てた平屋、プレハブに少し毛の生えた作りでした。
「あかあちゃん!!元気か?」
そう言いながら私と姉は家の中に入っていきました。
シーンとした室内、荷物は綺麗に整頓されていました。
そして私と姉が見たものは部屋の隅っこでうずくまってボーっと外を眺める母の姿でした。私と姉の姿を見てもなんの反応もありませんでした。ただ顔色は以前にもましてどす黒く頬も痩せこけていました。そんな母の姿を見て私は涙がこぼれました。
肌の黒さは「栄養失調」、まさしくそれと確信しました。
「あかあちゃん、家に帰ろ、迎えに来たで」
そんな私の言葉にも何の反応も示しませんでした。
私と私の親友が荷物をトラックに積み込んでる間だ母は姉とそれをじっと眺めていました。母のあまりの無関心さに驚きましたました。
ちゃくちゃくとトラックに積み込まれる荷物、暫くすると教祖の奥さんが血相をかいて飛んできました。そして荷物を積み込む私に向かって「何をしてるんですか?」と聞いてきました。「母を家に連れて帰ります」私はそう答えました。すると奥さんは私に向かって「そんな突然勝手な事をしてもらった困ります。先生に相談しないと」とこんな状況になってもそうほざく教祖の妻、私は無性に腹がたってきました。
「奥さん、母のこの顔見てどう思いますか?これでほっとけますか?」そう問う私の言葉に「○○さんは体調を崩されて・・・」その言葉にまた私の怒りが爆発しました。「どっから見ても栄養失調やろ!!毎日顔を合わせててここまでなるまで気が付かんかったんか!!」と、気が付けば大声を張り上げていました。
それ以上教祖の妻は何も言いませんでした。
それに先生と言われる教祖も家にいるはずなのですが出てくる事はありませんでした。
荷物を積み終えて帰るトラックの車内、母がいくら小柄だと言っても2トントラックに4人は無理があります。私は運転する親友に最寄りのJRの駅まで送ってもらって母と姉と3人で電車で帰ることにしました。トラックを降りた頃には日はどっぷりと暮れていました。電車の時間まで少し時間があるので私は母に「なんか食べたいものあるか?」と聞くと母は弱々しい声で「みつまめ食べたい・・・・」そう言いました。
田舎の駅前の喫茶店に入った私達3人、注文したみつまめを貪るように口にした母の姿がありました。「よっぽどお腹空いてたんやろな」そう思うと私と姉の目には涙が浮かんでいました。
「おかあちゃん、ゆっくり食べ、ゆっくりと・・・」
後から解った事なのですが、母はやっぱり栄養失調と診断されました。
あのおかしな言動も医者曰く「極度の飢餓状態で精神が錯乱してたのでしょう」と言うことでした。母から聞いた教会での毎日の暮らし、こと食べる事に関してはなにぶん山の上なのでスーパーなどありません。車とかバイクさえあれば毎日買い出しも行くことが出来るのでしょうが母には免許がありません、出家した初めの頃は同じく出家した信者が隣に住んでおり車を所有していたので買い出しはその信者に頼んでいたそうです。しかし数ヶ月経ってその信者が山を下り、その後の母の食料調達の手段はお参りに来た出家していない信者に頼む、それしか方法無かったそうです。しかし毎日毎日信者が来るとは限りません、そんな常態でご飯が食べれない状況が続いていたそうです。それじゃーいったい教祖はそんな母を見てどうも思わなかったんだろうか?毎日顔を合わせているのに・・・・・
山から下りた母親は暫く姉の家で住むことになりました。
間近に結婚する私と妻になる元嫁への姉と姉の旦那の優しい配慮でした。
母は姉の家で平静を取り戻していました。
あのおかしな言動もありません。ただ以前と違っていたのはあれだけ父の為にと朝晩欠かさず仏壇に手を合わせてた母が姉の家から15分ぐらいの私の家に遊びに来ても仏壇の前に行こうとしません。それよか驚いたのはその年の元旦に初詣に行った近所の神社で何気なく通り過ぎようとした鳥居の前で立ちつくした母、「どうしたん?」と聞く私の言葉に「帰る。神社に行きたくない」そう拒否する母の姿がありました。
人間、最後に頼るものは神仏と言います。
おぞらくその神仏をお参りすることがこの時の母にとって苦痛のなにものでもなかったのでしょう。「神仏に裏切られた」母の心にはそう刻まれたのでしょう。そしてそれから数ヶ月後母の異常な行動が目に付くようになりました。
アルツハイマー性痴呆症、その今だに医学では解明されない病が母の身体を冒しつつありました。 続く
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