2007年10月15日 (月)

母のこと(その3)

脳のCT画像、そこには人間って凄いよなって驚きがあります。
頭蓋骨の中に納まった脳の実質、ここで物を考え身体の動作の指令を出したり、考えたり、笑ったり、悲しんだり、怒ったり、技師として病院に勤めエックス線と言うもっとも画期的な無傷で人体の内部を見る方法、すごく馬鹿げた話なのですが世の中で何かを動かすにはガソリンや電力、古典的な仕掛けで言えばぜんまい、そういうものがあって初めて物体は動作するんですが地球一高度な文明である人間はこんな頭蓋骨に収まった言うなれば細胞の集合体?肉の塊?人間だけじゃなく地球上の生物が同じような仕組みで動かされてるって「それが命なんだよ」って言われても不思議に思えます。

あははは、突然お話がなんのこっちゃ?ですね(^_^;)

いやいや、毎週月曜日に私の勤める病院に放射線科のドクターが来て1週間撮影した脳に限らず全てのCT画像に診断を付けて頂いてるんです。私も読影のお手伝いをするのですがその先生が教える事が大好きでお手伝いに付く私に一から十まで詳しく説明してくれます。
脳のCT画像を見て「この患者さん○○に障害出てませんか?」とか「認知症があるでしょ」とか「こことここがおかしいから△△な障害が出てるはずです」とか患者本人を見ずにズバリ見抜いてしまいます。放射線科医なんだからそれぐらい見抜いてあたりまえな話なんだけど現実問題そこまで的確に判断できる医者は少なくとも私の知ってるかぎりでは数少ないです。
まっ、元某一流国立大学の助教授で渡米して教授の経歴を聞くと流石だ!!って納得してしまいます(^_^;) それにそんな偉い先生に毎週マンツーマンで指導してもらえる私は超ありがたいお話なんだけど説明に夢中になりすぎて先に進まない・・・・苦笑します(^_^;)

さて、いきなり脳の話題から入ったんだけど以前から書いてて停滞してた亡くなった私の母の認知症のお話、その後日談です。

母のこと(その1) (その2)で亡くなった私の母の痴呆症を発症するまでの過程を書きました。気が付けばかなり長文になりました かなり重たい話しになりますがお付き合い頂ければ幸いに思います。

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2007年3月 7日 (水)

母のこと(その2)

母のこと(その1)で亡くなった私の母の痴呆症を発症するまでの過程を書きました。 かなり重たい話しになりますがお付き合い頂ければ幸いに思います。

突然起こった母の異変、私は自分の耳を疑いました。
「おかあちゃん、親父は死んだんやで、なに言ってんの!!」
そう答える私の言葉に母は電話の向こうで黙っていました。そして電話が切れました。私は心配になってあわてて姉の家に電話しました。
「姉ちゃんあかあちゃんが・・・・・・」
姉も私の言葉に驚いていました。

数日後、私は親友の運転するトラックに乗っていました。
姉と和歌山県海南市に母を迎えに行く為でした。

あの驚きの電話の後私は何度も母に電話しました。
「○○か?どうしたんや?」母の問い返す言葉は普通となんら変わりがありません。
私は心の中で「あの電話はいったいなんやっやんや?」って不思議に思いました。
でもやっぱり心配になって翌日、母に会いに行きました。
その時も訪れた私と元嫁(当時交際中)に普通に接していました。なんら変わった事はありませんでした。その時私は「山の中で静かで良いな〜 でもテレビが無いのは寂しいから今度持ってくるわ」と言う私の言葉に母は「ラジオで十分、鳥の声、虫の声、子供の頃を思いだして良いよ」って言っていました。ただ心配だったのは母の顔色が以前に逢った時と比べて一段とどす黒くなっていたことでした。

ある日、母が出家したという教会の教祖の奥さんから電話が掛かってきました。
「○○さんの状況がおかしいので来てくれ」
との事でした、私の頭の中で痴呆と言う言葉が過ぎりました。
以前から私は電話をかけて来た教祖の奥さんも教祖とも面識がありました。「優しい言葉をかけてくれる先生」そういう印象でした。母が実家に居た頃、母の通ってる教会の仲間と言われる人達とも何度も逢っていました。母が経営するお好み焼き屋によく来てくれていました。私自身「信仰は母が父の為にしてること」と思っていたので母の仲間達を暖かく迎えていましたのでなんの不信感もなく溶け込んでいました。

友人が運転するトラックに揺られながら私はあれこれ考えていました。
トラックで行く、紛れもなく母を荷物ごと引き取るためでした。
ただ一つ心配だったのは突然荷物事母を迎えに行く事に母はどう反応するかでした。母自身がかなりの決心で出家したのに突然行って連れ帰る事が出来るのだろうか?
ただ、私の決心は決まっていました。「何が何でも連れ帰る」そう思っていました。

家を出て1時間半、車は教会と称する山の中腹に到着しました。
車を降りて、母が住む平屋に向かいました。この平屋と言うのは母が出家した教会の敷地内にあって出家した信者の居住区となっていました。居住区と言っても教会が用意したものではありません。出家した信者が自分でお金を出して建てた家でした。
しかしタダ同然の山の中腹に建てた平屋、プレハブに少し毛の生えた作りでした。

「あかあちゃん!!元気か?」

そう言いながら私と姉は家の中に入っていきました。
シーンとした室内、荷物は綺麗に整頓されていました。
そして私と姉が見たものは部屋の隅っこでうずくまってボーっと外を眺める母の姿でした。私と姉の姿を見てもなんの反応もありませんでした。ただ顔色は以前にもましてどす黒く頬も痩せこけていました。そんな母の姿を見て私は涙がこぼれました。
肌の黒さは「栄養失調」、まさしくそれと確信しました。

「あかあちゃん、家に帰ろ、迎えに来たで」

そんな私の言葉にも何の反応も示しませんでした。
私と私の親友が荷物をトラックに積み込んでる間だ母は姉とそれをじっと眺めていました。母のあまりの無関心さに驚きましたました。

ちゃくちゃくとトラックに積み込まれる荷物、暫くすると教祖の奥さんが血相をかいて飛んできました。そして荷物を積み込む私に向かって「何をしてるんですか?」と聞いてきました。「母を家に連れて帰ります」私はそう答えました。すると奥さんは私に向かって「そんな突然勝手な事をしてもらった困ります。先生に相談しないと」とこんな状況になってもそうほざく教祖の妻、私は無性に腹がたってきました。
「奥さん、母のこの顔見てどう思いますか?これでほっとけますか?」そう問う私の言葉に「○○さんは体調を崩されて・・・」その言葉にまた私の怒りが爆発しました。「どっから見ても栄養失調やろ!!毎日顔を合わせててここまでなるまで気が付かんかったんか!!」と、気が付けば大声を張り上げていました。

それ以上教祖の妻は何も言いませんでした。
それに先生と言われる教祖も家にいるはずなのですが出てくる事はありませんでした。

荷物を積み終えて帰るトラックの車内、母がいくら小柄だと言っても2トントラックに4人は無理があります。私は運転する親友に最寄りのJRの駅まで送ってもらって母と姉と3人で電車で帰ることにしました。トラックを降りた頃には日はどっぷりと暮れていました。電車の時間まで少し時間があるので私は母に「なんか食べたいものあるか?」と聞くと母は弱々しい声で「みつまめ食べたい・・・・」そう言いました。
田舎の駅前の喫茶店に入った私達3人、注文したみつまめを貪るように口にした母の姿がありました。「よっぽどお腹空いてたんやろな」そう思うと私と姉の目には涙が浮かんでいました。

「おかあちゃん、ゆっくり食べ、ゆっくりと・・・」

後から解った事なのですが、母はやっぱり栄養失調と診断されました。
あのおかしな言動も医者曰く「極度の飢餓状態で精神が錯乱してたのでしょう」と言うことでした。母から聞いた教会での毎日の暮らし、こと食べる事に関してはなにぶん山の上なのでスーパーなどありません。車とかバイクさえあれば毎日買い出しも行くことが出来るのでしょうが母には免許がありません、出家した初めの頃は同じく出家した信者が隣に住んでおり車を所有していたので買い出しはその信者に頼んでいたそうです。しかし数ヶ月経ってその信者が山を下り、その後の母の食料調達の手段はお参りに来た出家していない信者に頼む、それしか方法無かったそうです。しかし毎日毎日信者が来るとは限りません、そんな常態でご飯が食べれない状況が続いていたそうです。それじゃーいったい教祖はそんな母を見てどうも思わなかったんだろうか?毎日顔を合わせているのに・・・・・

山から下りた母親は暫く姉の家で住むことになりました。
間近に結婚する私と妻になる元嫁への姉と姉の旦那の優しい配慮でした。

母は姉の家で平静を取り戻していました。
あのおかしな言動もありません。ただ以前と違っていたのはあれだけ父の為にと朝晩欠かさず仏壇に手を合わせてた母が姉の家から15分ぐらいの私の家に遊びに来ても仏壇の前に行こうとしません。それよか驚いたのはその年の元旦に初詣に行った近所の神社で何気なく通り過ぎようとした鳥居の前で立ちつくした母、「どうしたん?」と聞く私の言葉に「帰る。神社に行きたくない」そう拒否する母の姿がありました。

人間、最後に頼るものは神仏と言います。
おぞらくその神仏をお参りすることがこの時の母にとって苦痛のなにものでもなかったのでしょう。「神仏に裏切られた」母の心にはそう刻まれたのでしょう。そしてそれから数ヶ月後母の異常な行動が目に付くようになりました。

アルツハイマー性痴呆症、その今だに医学では解明されない病が母の身体を冒しつつありました。  続く

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2007年2月22日 (木)

母のこと(その1)

この記事はお友達のkyaoさんの「父のこと・母のこと」にTBしています。

身内が痴呆症になる、その中でも自分を育ててくれた両親が痴呆症になってしまった時の何とも言えない辛さ、そして悲しさ、私も痴呆症の母と暮らしたその経験者として一筆書き残してみようかと思いました。久しぶりのシリーズものです。
なにぶん話が重く、またまた長くなりそうなので何度かに分けて更新したいと思っています(^_^;

新しい新居に移る準備の為に旧家の後かたづけをしていて一冊のノートが出てきました。そのノートに綴られた記録は平成6年に亡くなった母が書き記したものでした。

母の日記、毎日が綴られたそれには母自身が進んで書いたものではありません。それは当時母がアルツハイマー痴呆症を発病し私が医者に言われて母の痴呆症の進行を遅らせるための強制的に母に書かせた日記でした。

痴呆症、今では認知症と言いますが私の母にその兆しが現れたのは平成4年の秋頃でした。このお話しをする前に少し時間を遡ります。

昭和58年 父が亡くなりました。
自殺という突然の死、悲しさと怒りとが入り交じった状況で母は途方に暮れていました。当時の私は放射線技師学校の学生で私も母同様見せつけられた現実をどう納得すれば良いのかと母と同じく途方に暮れていました。お葬式も済み時間が経つにそんな気持ちを引きずりながらも普通の生活に戻って行きました。しかし母の父への気持ちは時間が解決してくれるような生やさしいものではありませんでした。

今から考えれば母は何かに縋りたかったのだと思います。そして母が決断した父への思いは「生涯かけて供養する」それでした。そして母のとった行動は宗教への道でした。その頃の母は夫婦で経営していた金物屋を廃業、化粧品のセールスで生計を立てるようになっていました。その傍ら、不動明王をお祭りしてるローカルな某宗教家に出会い、母はその先生と呼ばれる長に父への思いをぶつけました。

2年経ち私は技師免許を取得し京都の病院に勤める事になりました。初めての一人暮らし、実家に帰るのは週末に一度だけ、それも初めの内だけで段々二週に一回とか月に一度とかになっていました。帰省したとき母から時折聞かされる自分が慕う某宗教家の話、母は嬉しそうに語っていました。しかし1年ほど時が過ぎ私が実家へ帰省したとき「あの先生はあかん、お仕えしても意味がない」と言い出しました。良いか悪いかは母にしか解らないこと、私はその話しを聞きながらどう答えて良いのかも解らずただ話を聞くだけでした。そしてまた帰省したある日、母からこう聞かされました「凄い先生がいて今おかあちゃんはその先生の元でお父さんの供養をしている」という言葉でした。母はその新しい先生の話をよく聞かせてくれました。しかし私は無宗教、母の言葉に相打ちは打つものの真剣に聞くことはありませんでした。というか私の気持ちの中で「母の好きなようにしたらいい、それで母が救われるのなら良いじゃないか」でした。その頃には母は化粧品のセールスも廃業し自宅の店舗でお好み焼き屋を始めるようになりました。

3年の時が過ぎ私は京都の病院を退職、実家に戻りました。私の今度の勤め先は大阪市内の検診センター、仕事、遊び、趣味、私はそのパターンに明け暮れていました。エアロビクスのインストラクターになったのもその時期でした。母はと言うと相変わらずお好み焼き屋を営みながら宗教に専念していました。そして又3年が過ぎ、私は検診センターを退職、フリーでエアロビクスのインストラクターをしながらバイトで本業の放射線技師も続けていました。ある日、母から思いもよらぬ言葉を聞かされました「お父さんの供養のために出家する」でした。私は驚きながらも言い出したら聞かない母の性格を知っていたので「母が決めた事、それで母が救われるのなら良いじゃないか」と今から考えたら無責任な解答してしまいました。母は自分の思いに突っ走りました。それに母から聞かされたもう一つの事実、それは母が父から相続した大阪市内にある土地を売却したと言うこと。得たお金をお父さんの供養に使う事にしたと言うことでした。実際そう聞かされてもそんな土地があった事さえ知らなかった私、それに父が残したもの、母が父の供養に使うと言うなら止めようがありません。私はその売買の経緯を深く聞くこともせず安易に聞き流していました。

後にその売買を巡って私が某宗教団体相手に損害賠償請求の裁判を起こすなんて想像もつかない事だったのです。

母はお好み焼き屋も廃業し出家と称して和歌山の○○市に籍を移しました。
移転先は母が使えていた宗教団体の新しく開設した教会と言う名の某宗教団体の支部、母はそこに自らを出家と言う形で全て捧げました。そんな時でも私は相変わらず「母がそう決めたのだから自由にしたらいい」と今から考えれば自分勝手な解答を出し母の行動を停めもせず我が身の事ばかり考えていたと思います。

半年後、私は当時付き合ってた彼女と結婚を決意しました。そして和歌山の教会で過ごしている母にそのことを伝えました。母は喜んでくれました。そして近々大阪に行くから結婚するお嫁さんに逢わせてと言い電話を切りました。それから1週間後、私と元嫁は大阪市内で母と会うことになりました。数ヶ月ぶりに見る母の姿、顔は浅黒くやせ細っていた姿に少々驚いたものの「修行が大変なのかな?」程度しか思っていませんでした。結婚する元嫁を紹介して3人で食事を取りました。母は嬉しそうに私達を称えてくれました。久しぶりの楽しい時間を過ごし母と別れました。帰り際に母は「式が決まったら連絡して」と言い残し和歌山に向かう電車に乗りました。

結婚を決めた息子とその結婚相手、そして息子の母親との顔合わせ、一見普通の光景だったと思います。でもその光景の裏には母が私達に隠していた大きな過ちとそして母自身の息子に言えない苦悩が隠されていました。後から考えれば母と出会った時の浅黒くやせ細った姿、その容姿の本当の理由はこの時私にも解らない大きな真実と発展していたのです。

一ヶ月ほど過ぎたある日の夜半頃、母から一本の電話が来ました。
「どうしたん?」と聞く私、母が私に告げた言葉は驚くような言葉でした

「お父さんがいないんだけど○○(私の名前)どこ行ったか知ってるか?」

母の思いもよらない質問に私は愕然としました。
父はとうに死んでいる。そんなこと母も100も承知な事、

「えっ?親父は亡くなったやん」

と答える私の言葉に母は電話の向こうで言葉につまっていました。
そしていきなり電話が切れました。私は心配になり母に電話するも繋がりません。
私の頭の中に一瞬「呆け」という文字が浮かびました。しかしつい一ヶ月前に母と会った時の事を思いだして「しっかりしてたし、まさか、そんな分けないよな」私は「呆け」と言う文字を打ち消していました。その瞬間また電話のベルが鳴りました。私は慌てて受話器を取ると相手は母でした。そしてまた母はこう言ったのです。

「○○、おとうさん、どこ探してもおれへんねん。何処行ったかしらんか?」

これから起こる2年間に渡る惨事の始まりでした。

次回に続く

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