« 繋がった!!!(^^ゞ | トップページ | ありがとう。 »

2007年2月22日 (木)

母のこと(その1)

この記事はお友達のkyaoさんの「父のこと・母のこと」にTBしています。

身内が痴呆症になる、その中でも自分を育ててくれた両親が痴呆症になってしまった時の何とも言えない辛さ、そして悲しさ、私も痴呆症の母と暮らしたその経験者として一筆書き残してみようかと思いました。久しぶりのシリーズものです。
なにぶん話が重く、またまた長くなりそうなので何度かに分けて更新したいと思っています(^_^;

新しい新居に移る準備の為に旧家の後かたづけをしていて一冊のノートが出てきました。そのノートに綴られた記録は平成6年に亡くなった母が書き記したものでした。

母の日記、毎日が綴られたそれには母自身が進んで書いたものではありません。それは当時母がアルツハイマー痴呆症を発病し私が医者に言われて母の痴呆症の進行を遅らせるための強制的に母に書かせた日記でした。

痴呆症、今では認知症と言いますが私の母にその兆しが現れたのは平成4年の秋頃でした。このお話しをする前に少し時間を遡ります。

昭和58年 父が亡くなりました。
自殺という突然の死、悲しさと怒りとが入り交じった状況で母は途方に暮れていました。当時の私は放射線技師学校の学生で私も母同様見せつけられた現実をどう納得すれば良いのかと母と同じく途方に暮れていました。お葬式も済み時間が経つにそんな気持ちを引きずりながらも普通の生活に戻って行きました。しかし母の父への気持ちは時間が解決してくれるような生やさしいものではありませんでした。

今から考えれば母は何かに縋りたかったのだと思います。そして母が決断した父への思いは「生涯かけて供養する」それでした。そして母のとった行動は宗教への道でした。その頃の母は夫婦で経営していた金物屋を廃業、化粧品のセールスで生計を立てるようになっていました。その傍ら、不動明王をお祭りしてるローカルな某宗教家に出会い、母はその先生と呼ばれる長に父への思いをぶつけました。

2年経ち私は技師免許を取得し京都の病院に勤める事になりました。初めての一人暮らし、実家に帰るのは週末に一度だけ、それも初めの内だけで段々二週に一回とか月に一度とかになっていました。帰省したとき母から時折聞かされる自分が慕う某宗教家の話、母は嬉しそうに語っていました。しかし1年ほど時が過ぎ私が実家へ帰省したとき「あの先生はあかん、お仕えしても意味がない」と言い出しました。良いか悪いかは母にしか解らないこと、私はその話しを聞きながらどう答えて良いのかも解らずただ話を聞くだけでした。そしてまた帰省したある日、母からこう聞かされました「凄い先生がいて今おかあちゃんはその先生の元でお父さんの供養をしている」という言葉でした。母はその新しい先生の話をよく聞かせてくれました。しかし私は無宗教、母の言葉に相打ちは打つものの真剣に聞くことはありませんでした。というか私の気持ちの中で「母の好きなようにしたらいい、それで母が救われるのなら良いじゃないか」でした。その頃には母は化粧品のセールスも廃業し自宅の店舗でお好み焼き屋を始めるようになりました。

3年の時が過ぎ私は京都の病院を退職、実家に戻りました。私の今度の勤め先は大阪市内の検診センター、仕事、遊び、趣味、私はそのパターンに明け暮れていました。エアロビクスのインストラクターになったのもその時期でした。母はと言うと相変わらずお好み焼き屋を営みながら宗教に専念していました。そして又3年が過ぎ、私は検診センターを退職、フリーでエアロビクスのインストラクターをしながらバイトで本業の放射線技師も続けていました。ある日、母から思いもよらぬ言葉を聞かされました「お父さんの供養のために出家する」でした。私は驚きながらも言い出したら聞かない母の性格を知っていたので「母が決めた事、それで母が救われるのなら良いじゃないか」と今から考えたら無責任な解答してしまいました。母は自分の思いに突っ走りました。それに母から聞かされたもう一つの事実、それは母が父から相続した大阪市内にある土地を売却したと言うこと。得たお金をお父さんの供養に使う事にしたと言うことでした。実際そう聞かされてもそんな土地があった事さえ知らなかった私、それに父が残したもの、母が父の供養に使うと言うなら止めようがありません。私はその売買の経緯を深く聞くこともせず安易に聞き流していました。

後にその売買を巡って私が某宗教団体相手に損害賠償請求の裁判を起こすなんて想像もつかない事だったのです。

母はお好み焼き屋も廃業し出家と称して和歌山の○○市に籍を移しました。
移転先は母が使えていた宗教団体の新しく開設した教会と言う名の某宗教団体の支部、母はそこに自らを出家と言う形で全て捧げました。そんな時でも私は相変わらず「母がそう決めたのだから自由にしたらいい」と今から考えれば自分勝手な解答を出し母の行動を停めもせず我が身の事ばかり考えていたと思います。

半年後、私は当時付き合ってた彼女と結婚を決意しました。そして和歌山の教会で過ごしている母にそのことを伝えました。母は喜んでくれました。そして近々大阪に行くから結婚するお嫁さんに逢わせてと言い電話を切りました。それから1週間後、私と元嫁は大阪市内で母と会うことになりました。数ヶ月ぶりに見る母の姿、顔は浅黒くやせ細っていた姿に少々驚いたものの「修行が大変なのかな?」程度しか思っていませんでした。結婚する元嫁を紹介して3人で食事を取りました。母は嬉しそうに私達を称えてくれました。久しぶりの楽しい時間を過ごし母と別れました。帰り際に母は「式が決まったら連絡して」と言い残し和歌山に向かう電車に乗りました。

結婚を決めた息子とその結婚相手、そして息子の母親との顔合わせ、一見普通の光景だったと思います。でもその光景の裏には母が私達に隠していた大きな過ちとそして母自身の息子に言えない苦悩が隠されていました。後から考えれば母と出会った時の浅黒くやせ細った姿、その容姿の本当の理由はこの時私にも解らない大きな真実と発展していたのです。

一ヶ月ほど過ぎたある日の夜半頃、母から一本の電話が来ました。
「どうしたん?」と聞く私、母が私に告げた言葉は驚くような言葉でした

「お父さんがいないんだけど○○(私の名前)どこ行ったか知ってるか?」

母の思いもよらない質問に私は愕然としました。
父はとうに死んでいる。そんなこと母も100も承知な事、

「えっ?親父は亡くなったやん」

と答える私の言葉に母は電話の向こうで言葉につまっていました。
そしていきなり電話が切れました。私は心配になり母に電話するも繋がりません。
私の頭の中に一瞬「呆け」という文字が浮かびました。しかしつい一ヶ月前に母と会った時の事を思いだして「しっかりしてたし、まさか、そんな分けないよな」私は「呆け」と言う文字を打ち消していました。その瞬間また電話のベルが鳴りました。私は慌てて受話器を取ると相手は母でした。そしてまた母はこう言ったのです。

「○○、おとうさん、どこ探してもおれへんねん。何処行ったかしらんか?」

これから起こる2年間に渡る惨事の始まりでした。

次回に続く

|

« 繋がった!!!(^^ゞ | トップページ | ありがとう。 »

認知症」カテゴリの記事

コメント

なんか…胸が詰まります…。それは、これから先、peace_macさんとお母様の身の上に起きるであろう事を知っているから、という事もありますが、どうしても今の自分自身と重ね合わせてしまうから、でしょうか。
これから先、どうなるのかという恐怖と。
それがたとえ分かっていても、自分に何も出来ないというもどかしさと、自分自身の非力さと。

怖いです…胸が詰まります…。

投稿: kyao | 2007年2月24日 (土) 14時09分

>kyaoさん
またこんなスレをたててしまいました。
kyaoさんの記事を読んでこの話題も私達の年齢層では遅かれ早かれ経験するであろう問題と思いました。前々から痴呆に関して世間の認識は、痴呆は子供に戻るとか一旦呆けてしまったら呆けた本人は楽とか、現実とはとかちょっと違った感じでとらえられてるように思います。正直言って後者は痴呆が進んでしまえばそうだろうと思います。でも全て過程があるわけでその過程を迎える本人の辛さ、それを目の当たりにする身内の悲しさ、ほんと言葉では言い表せないような世界だと思います。この記事を書くことで同じような状況になってる家族の方々のなにかの参考になればとおもいます。なにぶん話が重いので普通の記事の合間に更新したいと思います。宜しければお付き合い頂ければ幸いに思います。

投稿: Peace_mac | 2007年2月25日 (日) 23時38分

 母方の祖父の死後、ひとり暮らしをしていた祖母が認知症になりました。最初に、様子がおかしいと気づいたのは私と妹。同じ話、しかも、自分が結婚する前の同じ話ばかり繰り返すようになり、「おばあちゃんは過去の世界に生きている。少しおかしいよ」と母や、祖母の目と鼻の先に住んでいた叔父達に話しましたが、親が惚けていくこと認めたくなかったのか、まったく取り合ってくれませんでした。私の父は、うちに引き取って面倒をみようと言ってくれたのですが、母が、父方の祖母と自分の母の両方を看るのはイヤだといい、結局、症状はどんどん進み、母方の祖母は施設に入所し、10年近く経った昨年亡くなりました。亡くなる前の年、唯一のひ孫である、弟の娘を抱かせてあげられたことだけが、残された私たちにとって心の救いです。
 老いていく親を看るのは本当にツライです。病気で弱っていく姿も看ていて悲しかったですが、日に日に、物事がわからなくなっていくのは、ご本人自身も相当におつらいはず。たとえ、病気のせいとわかっていたとしても。
 胸がいっぱいです・・・。

投稿: venerdi | 2007年2月26日 (月) 10時25分

こんにちわ
少しづつ落ち着かれてきたようですね。
自分の親の認知症と向き合うのは辛いですね。
我が家も毎日朝早くから始まります。
会社に行くというのでそこのあたりから
脳は萎縮しているんだろうと思います。
しかも毎日同じ話題ですからもうこっちが
おかしくなりそうです。
介護認定も無理ですし、入れる施設も十分には
無く ほとんどが在宅で頑張っているのが現状です。でも親の呆けは辛いですね。
目が離せませんが今は外が寒いからいいのですが
これが暖かくなったら怖いですねえ。
宅老にでも入れようかと相談しています。

投稿: すず音 | 2007年2月26日 (月) 14時00分

ネットで広い身内とかしています
peace_macたちが、ネットで身内とかをBLOGしなかったの?


投稿: BlogPetのおっさん | 2007年2月28日 (水) 14時14分

>venerdi さん
venerdi さんも経験者なんですね。
仰る通り日に日に物事が解らなくなっていく本人が一番辛いと思います。
kyaoさんもご自身のブログで書かれていますがまず自分の名前が書けないというのが目に見えてわかる第1段階だと思います。後で書きますが私も何度となくその状況を見て母親と向き合いました。何度も書き直してるうちに泣き出した母の顔が今も思いだしたら涙が出てきます。私は特別信仰してる宗教はありませんが「神様はこんな仕打ちをなぜするのだろう」って恨みましたよ。ほんと辛いです。

>すず音さん
はい、少しずつですが落ち着いてきました。
MINI BBSで触れている風邪も少し気が抜けたかな〜なんて思っています。

>我が家も毎日朝早くから始まります。
そうなんですか、すず音さん家ではingなんですね。
心情お察しいたします。こんな時、医療人って損な時があるとおもいませんか?
知識と看護の経験があるだけその後の進行が目に見えて解ってしまいますもんね。

>宅老にでも入れようかと相談しています。

私も最後は民間病院の老人病棟に入れました。
入院してから亡くなるまで3ヶ月、血液検査で腫瘍マーカーが異常値、
結局大腸ガンを併発していました。結果、急性心不全で亡くなりました。
母が亡くなって悲しい反面、少しほっとしたのも事実です。
でも、正直あれで良かったのかな?って考えたりしました。

投稿: Peace_mac | 2007年2月28日 (水) 21時02分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 母のこと(その1):

» 父のこと・母のこと [kyaoの「主婦・妻・女」の掲示板]
今回の帰省についてはExite Blogの方に書きましたが、こちらには父の様態に [続きを読む]

受信: 2007年2月24日 (土) 14時16分

« 繋がった!!!(^^ゞ | トップページ | ありがとう。 »